
もう一度共演したかった
思えば16歳、高校1年の時からのつきあいだった。NHKの放送劇団に入ってからも、君は毎月、あの九段の地下室に思えば16歳、高校1年の時からのつきあいだった。NHKの放送劇団に入ってからも、君は毎月、あの九段の地下室にあった演劇部の部室にやってきた。リーゼントの髪にした時、ラバソールの靴を買った時、はじめて背広をNHKの厚生会で買った時も、さっそうと現れた。もう54年も前の話なんだね。
「今まで仕事をことわったことがないのが自慢だったが、今後は分にあった仕事を少しずつしながら、少しでも楽しき事に出会えるよう頑張ってゆくよ、アーちゃん一緒に楽しく生きようね」なんて快気祝いの手紙をくれたばかりなのに。
生涯たった一度、劇団雲で共演した「毒薬と老嬢」の2人の大泥棒コンビは大好評だった。病室であれもう一度やろうか、なんていっていたのに。
先日、役者にならなかったら、絵かきになっていたといつもいっていた君の作品展を君の地元の西荻でやったよ。奥さんを描いたダンスの絵、愛情いっぱいだったよ。どうか三途の川の手前で、油絵でも描きながら待っていてくれよ。
(高3・渥美国泰)
多芸多才、誇れる兄貴だった
兄貴は新聞、テレビで「いぶし銀のような」、「存在感のある」、「温かみのある」、「演劇青年」、「名脇役」などたくさんの賛辞を頂戴し、惜しまれて亡くなったのだと知った。しかしまだ幾つかの舞台の仕事が予定されていたのに、それを果たせずさぞ無念な思いであったろうと思う。
昭和20年夏に疎開先から戻り、家が近かった旧制九段中学へ入った。私が昭和29年に同じ九段高校に入ったときに、図画の「チョーク」、英語の「キャベツ」、歴史の「カミナリ」とか先生のあだ名を教えてくれた。もう一つ兄貴と私の九段のつながりは、白の6尺褌を引き継いだったことだろうか。当時、水泳の時間は男子は全員白か赤の褌がユニフォームであり、6、7年前に兄貴が使った白褌がなぜか家に残っていた。兄貴はすでに演劇には猛烈に入れ込んでいたようだ。秋の文化祭のころが一番元気だったように思う。
中学時代の兄貴は演劇に情熱を注いでいた。後年母が話していたエピソードがある。ある日、担任の小川先生(数学)が我が家を訪れ、「お宅の章くんは近頃学校に来ませんが、どうしたのですか」。母は「いえ、毎朝お弁当を持って家を出て行きます」。その晩父親の詰問に「授業がつまらないので、昼間は靖国神社の境内や千鳥ヶ淵の土手で寝そべって時間をつぶし、放課後3時頃、演劇部に“登校”していた」と白状したそうだ。
中学を卒業するころになって「これからは大学ぐらい出ておけ」という父親に、兄貴は「自分は役者になりたい。役者に大学教育は不要だと主張して、激しく言い争っていたシーンを覚えている。ところがちょうど、NHKが放送劇団の団員を募集していて、それに応募し、合格して円満な決着を見た。
兄弟姉妹の4人の中でいろいろな才能が兄貴一人に集中していたように思える。とりわけ絵は好きでよく描いていた。読書好きで文章も上手かった。何よりも、あの混乱の時代に先行き不透明な仕事を自分の進路としてはっきり意識し、心配し反対する親たちを説き伏せて、信じた道を一筋に突き進んだ兄貴にはいつも敬意を抱いていた。正月に兄弟姉妹や家族が集まるとき、おもしろおかしく身振りも入れて世間話をする兄貴は、目の前で一人芝居を見るようで実に楽しかった。兄貴と共有した日々を誇りに思い、忘れがたい。
(高9・名古屋利彦)