
至大荘行事の始まりは昭和2年7月、土地の入手は同年3月。一中(九段)の校舎完成が昭和3年だから、まさに都心の校舎と同時進行でトトンと創られた。成田千里(校長)は至大荘を単なる臨海施設ではなく、自然と一体になって教育を行なう学園とし、だから冬も合宿し勉強する。水泳だけではない自然の中でのレクレーションを通じて生徒を鍛えていこうと考えた。
震災の打撃を受けた当時の潮流で、自由学園、玉川学園、成城学園、武蔵高校など、この頃の学校はみな郊外の自然の中に創られた。公立でもこの理想教育をやるチャンスが瞬間あって、成田千里は燃えたのだろう。
至大荘がある風景は、非常にミステリアスな空間だ。絶壁に囲まれて、隠れ家的な場所、それでいて眼前に海がひらけ、しかも穏やかな守谷湾の海と、芙蓉が浦の荒波砕ける2つの海。よくぞこんな場所を見つけたものだと思う。
ここの地主、後に昭和電工コンツェルンを作った森矗昶と成田千里がどうして知りあったかについて、震災後の東京市長を引き受けた後藤新平の影を見る。後藤も本格的な学園を創ってみたいと思い、種々の手立てでこの土地を見つけて、学校ひとつくらい援助するのは当然じゃないのとか筋論で森氏を口説く。そうでなければ、2000坪ものまとまった土地は出てこない。これを成田が坪1円で購入する。こなれた値段だ。当時は厚い本が1冊1円の円本時代。「本1冊ですよ。それであなたの名前は永久に残る」みたいな、案外こんなところではないだろうか。
ところが昭和4年の正月、成田校長は学校会計のびん乱などを理由に突然クビになる。後藤新平が市長を去って後ろ盾を失った。逆に思えば、急いだ理由も分る気がする。「こんなすごい学校は二度とできない、実力者の親分がいるうちだ」。
実際、実行が半年もずれ込んでいたら今に続く至大荘は無かったかも知れない。
後藤新平の政治家的構想と成田千里の教育的野心と、それから父兄がお金を出した。この時期、怪物同士の一瞬の運命的な出会いがあって至大荘は出来た。まさにミステリアスな日本史のドラマであると思う。