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最終更新日:2008年11月21日

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2006年01月01日 更新

菊友会大会・クラス会から「日米開戦の報、その時、あなたは?」

今年、傘寿の記念に菊友会大会でクラス会を開かれた中15回生。昭和13年に旧制市立一中入学、18年卒業。軍国主義的風潮が高まる中で一中生活を送られ、在学中に太平洋戦争も始まりました。菊友会広報委員会は、中15回生の皆様に、(1)日米開戦のニュースを聞いてどのような感想を持たれたか、(2)学内の雰囲気は変わったか、(3)思い出の恩師は−の3点についてお伺いしました。ご回答のいくつかをご紹介します。



(1)日米開戦の感想
・昭和16年12月8日、中学3年の登校中、ラジオで「帝国陸海軍は英米両国と戦闘状態に入れり」と聞いて、たいへんなことになったと思った。
・当時は景気のよい大本営発表や軍歌に洗脳され、一億総、躁状態の時代。好むと好まざるにかかわらずその影響を受けたが、市立一中のわれわれは日米開戦を自らのこととして深刻に受け止めた記憶がない。ただ、日本のような小さい国が大国アメリカと戦って勝てるのか、もし勝ちでもしたら軍人がのさばる世の中になるなと思ったことなどが記憶に残っている。
・来るものが来たと、身の引き締まるショックを感じたが、開戦時の大戦果の報でその危惧は薄らいだような錯覚を覚えた。
・やはり始めてしまったのだなーと思っただけで、これといった意識の変化はなかった。
・朝起きてラジオで開戦を知ってびっくり。しかし、真珠湾攻撃の大勝利の報道があり、落ち着いて学校に向かった。飯田橋駅から歩いていると家々のラジオから軍艦マーチが聞こえてきて、ルンルンで登校したことがいちばんの思い出。

(2)教育方針や学内の雰囲気は
・まったく変わらなかった。強いて言えば、多少、教練の時間数が増えたぐらい。昼食は全校生徒、教職員一同、地下の大食堂で、5年生の週番の「さりはんり、べっしょに向かわず」という合図で、一斉に同じ食事をとったことを鮮明に思い出す。昭和18年春頃は、食糧も乏しくなっていたにもかかわらず、一中の昼食には質の低下がほとんどみられなかったことは今振り返っても驚異に値する。至大荘も忘れがたい。
・これまでの考え方や方針に変化は感じられなかった。ここが第一中学の偉いところだ。ただ、教練が少々厳しくなった。
・気象部の観測が禁止された。
・校内は文化系と理科系に別れることになったが、文化系は20歳で兵役が待っていた。理科系は軍需工場への動員で兵役を免れるので、理科系に変わる人が増えた。しかし、勝ち戦と聞いていたから、割合のんびりムードだった。苦労したのは上の学校に行ってから。みんなやっと生き延びた感じである。

(3)思い出の恩師
中15回生の5年間はクラスの入れ替えがなく、担任の先生も変わらなかった。A組=数学の福井常孝先生、B組=英語の清成孝先生、C組=国語の英敏道先生、D組=漢文の渡部信二郎先生。やはり担任の先生についての思い出が深いようだ。
C組の英先生は禅寺の和尚さん。クラス会の名前は和尚をひっくり返して「尚和会」。今でも毎年1回開いているという。

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